【有馬温泉月光園便り】湊川神社〜楠公武者行列〜
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JR神戸駅のすぐそばに湊川神社という神社がございます。この神社で5年ぶりに楠公武者行列が行われました。早速取材へと行ってまいりました。今日はそのレポートです。 この湊川神社には、後醍醐天皇の命に応えて建武中興に大いなる功績を残した楠木正成公(大楠公)を始め、ご夫人、お子様正行公(小楠公)、弟君の正季卿等ご一族十六柱と菊池武吉卿が祀れています。そしてこの武者行列は、今から660年以上も昔、建武中興に大いなる功績を残さした楠正成が後醍醐天皇を、この神戸の地でお迎えし、京都へ先導された最も晴れやかな姿を再現したものだと聞いております。 写真のように皆さん勇ましく、そして華麗な姿での行進です。先頭には湊川中学の生演奏、そして各武将の役をやられている方はちゃんと立派な馬に乗られておりました。総勢800人の大行列はとても長く、最後尾の方が神社を出られるまでになんと!一時間近くもかかっておりました。 この武者行列の中には兵庫県知事、タレントの松本萌子さん、赤井秀和さんも参加されておりました。そして行列はこの後、元町4丁目⇒中突堤(タワーサイドホテル南)⇒ハーバーランド(高浜岸壁:コンチェルトの発着場です)⇒東川崎交差点⇒新開地商店街⇒湊川公園⇒荒田グランド北角⇒柳筋⇒多聞通交差点というルートで湊川神社に帰ってきます。その行程は休憩も入れますとなんと約6時間という長い行程です。参加された皆様、本当にお疲れ様でした。 平成19年5月26日 有馬温泉月光園 門口 |
【有馬温泉月光園便り】日本発のサイダー
【有馬温泉月光園便り】日本発のサイダー”有馬サイダーてっぽう水”
温泉と炭酸せんべいで有名な有馬温泉ですが、実は有馬温泉は日本のサイダーの発祥の地とも言われております。
日本で言うサイダーというのは、日本独特のもので、本来の意味はリンゴの果汁を発酵して作られた酒で、6%前後のアルコールを含む物をいうそうです。
有馬には昔は人が立ち入らなかった場所がございます。町の南側に位置する射場山と愛宕山の谷あいに位置する位置する通称”地獄谷”と呼ばれる場所で、射場山断層の割れ目から炭酸ガスが噴出し、その影響で岩石が白くなり、洞穴にはプクプクと奇怪な音を立てたお湯が沸いていたようです。その洞穴に鳥や虫が入ると、二酸化炭素中毒を起こして死んでしまうことから、有馬の住人はその場所を”鳥地獄””虫地獄”と呼び、そこに沸いている湯を”毒水”と称して、恐れていたそうです。
明治6年に内務省司薬場の検査により、この毒水が良質の二酸化炭素冷鉱泉だということが分かりました。
有馬温泉には赤湯と呼ばれる含鉄強食塩泉があり、これを金泉と呼んでおります。一方、毒水が二酸化炭素冷鉱泉で通称銀泉と呼ばれるものです。この銀泉が見つかったことにより温泉ばかりでなく、土産物まで使われることになりました。
この銀泉を使ったお土産で一番有名なものが”炭酸せんべい”ですが、同時期に、炭酸泉を使って日本初のサイダーが有馬で生まれました。そもそもサイダーは外国からの飲料ですが、これを模して日本オリジナルのサイダーが有馬の地で造られたのです。
明治34年、居駒吉らが発起人となって「有馬鉱泉株式会社」が設立され、ガス入りのミネラルウォーターを外国へと輸出しておりました。炭酸泉源の傍に瓶詰工場を造り、温泉を使って「炭酸鉄砲水」なる清涼飲料水を製造していました。その数年間2000〜3000箱と言われております。
市場の評判も良かったこの会社が国内向けに生産した期待の新製品が”有馬サイダー”です。「有馬鉱泉」で造られていたガス入りのミネラルウォーターに香料や甘味を加えると美味しい飲料となります。これをサイダーとして発売したのです。この有馬サイダーの発売につづいて各地で近代産業の象徴としてサイダーが作られます。「帝国鉱泉」はサイダーの元を輸入して三ツ矢印の「平野シャンペンサイダー」を造り、これが現在の三ツ矢サイダーのルーツだそうです。続いて「シトロン」というレモン系の炭酸飲料まで登場し、爆発的にヒットしたようです。
このような動きから、1944年には他の鉱泉会社に対抗しようと、機械を購入し、大量生産を目指します。大正2年には大砲のデザインが入った角型のサイダーを発売。以後も多くの種類のサイダーを発売しています。しかし時代の流れには勝てないようで、大正13年に「金泉飲料」に買収され、翌年には「日本麦酒鉱泉」に再度買収され、川西市の平野に工場が移され、有馬でのサイダー製造が終わってしまったそうです。
2002年秋にこの有馬サイダーが復活しました。昔ながらの味を出すために飲むと思わずゲップが出るくらい炭酸をきつくしてあります。そして昔のイメージを残す為「有馬八助商店」という合資会社を設立し、昔のトレードマークであった鉄砲を模したラベルを起用し、「有馬サイダーてっぽう水」として有馬町内で販売したのです。全国から40年前の古いビンを取り寄せてラベルを貼っておりますので、レトロ感があふれたサイダーとなり、瞬く間に有馬の名物となりました。
この有馬サイダーは月光園游月山荘、鴻朧館両館の売店で販売しております。お値段は1本250円となっております。有馬温泉にお越しの際には炭酸せんべいを合わせて是非お試しくださいませ。
平成19年5月20日 有馬温泉月光園 門口
【有馬温泉月光園便り】有馬の名物”有馬人形筆”
有馬温泉はあまり特産がないと言われておりますが、そうでもないようです。一番人気はやはり炭酸せんべいですが、その他にも竹細工や有馬人形筆、日本初のサイダーなども有名です。今日はその中から有馬人形筆をご紹介いたします。
有馬の歴史でもお触れいたしましたが、有馬温泉に第34代舒明天皇が訪れた際、めでたく有間皇子を授かりました。そこからなのか有間温泉の守護神は子宝の神様とも言われております。そしてその皇子誕生を記念して、有馬の人形筆ができたといわれております。
この有馬人形筆は、からくりが施されていて、筆を立てると頭からとても小さく可愛らしい人形が飛び出すようになっております。現在はこの人形を作っているのは有馬の中でも西田筆店のみとなってしまっております。当館でも鴻朧館と游月山荘の両館で販売しておりますが、この西田筆店から入荷しております。
またこの有馬筆は人形のからくりだけでなく、模様も有名です。篠竹(しのだけ)の筆軸に色とりどりの絹糸が巻かれ、その模様が美しいことでも有名です。この模様はまったく機械を使わず、全て手巻きで行われ、無数とも思えるほど柄のバリエーション多いのですが、基本は「市松」「矢絣」「青海波(せいかいは)」「うろこ」の4種類しかないそうで、全て基本柄からの応用だそうで、驚きました。
このからくりを施した人形筆は全国で有馬にしかないそうで、観光に来られたお客様だけでなく、遠方からの注文も多いようです。お店は阪急バスターミナルの横の坂を少し登ったところにございます。お店を訪れると、有馬人形筆の作製現場をみることもできます。
平成19年5月19日 有馬温泉月光園 門口
【有馬温泉月光園便り】秀吉と有馬温泉
有馬温泉と太閤秀吉との関係はあまりにも有名ですが、豊臣秀吉の時代は有馬温泉の歴史の中では、かなり新しいものとなります。震災以前から「有馬には太閤さんの湯殿がある」と言われておりましたが、震災の復旧の際にその湯殿跡が見つかり、現在は太閤の湯殿館として営業されております。
仁西の有馬温泉復興以後、泰安の日々が続き、室町時代から鎌倉時代の戦国時代に入っても、有馬温泉に入湯に来られる人は減らず、世の中の混乱も有馬の繁栄にはたいした影響はなかったとされています。
仁西の有馬温泉復興から3百余年、平和だった有馬に動乱の期がやってきます。1528年に大火事があり、有馬は焦土となります。また1545年には善福寺後方の落葉山に城を構えていた三好宗三政長に、三木城主別所豊後守が攻め入りました。そのときの余波を受けて大打撃を受けてしまいます。そして1576年の大火事と復興する間もなく壊滅的なダメージを被りました。
一方明智光秀を打ち破り、天下統一の地固めにもひと段落ついたころに、豊臣秀吉が有馬を訪れます。秀吉は長く続いた戦で疲れた心身を天下に名高い有馬の名湯で癒したとされています。これが歴史に残っている秀吉入湯の最初です。その後も秀吉は再三にわたって有馬を音連れ、復興に手を貸したとされています。1597年に大規模な改修工事が始まりましたが、惟男の直接的なきっかけは前年に近畿一円を襲った慶長伏見地震だとされています。建物の甚大な被害もそうですが、更なる問題はこの地震の影響で、有馬の湯が熱湯になってしまったということです。湯治効果を良く知っていた秀吉は英断をふるって有馬温泉の改修工事に取り組みます。
秀吉の改修工事より350年間、有馬町は一度も泉源の改修工事を行っておらず、このときの秀吉の改修工事が後の有馬の繁栄の基礎になっていることが分かります。
秀吉は地震の時に新しくできた温泉に湯山御殿を造り、工事が完成した1598年に入湯する予定でしたが、悪天候の為中止となります。その後間もなく病で床に伏し、この成果を見ることはなかったようです。
平成19年5月16日 有馬温泉月光園 門口
【有馬温泉月光園便り】有馬の歴史 ”仁西と有馬温泉”
有馬温泉は、平安時代に六甲の山津波によって、一時さびれてしまいます。鎌倉時代になると、大和国(現在の奈良県)の僧である仁西によって復興されました。
仁西は薬師如来を諸語する十二神将にちなんで12の坊を建設して有馬温泉を復興させます。この「坊」というのは本来は僧の宿舎のことを言うようです。有馬温泉には「○○坊」と旅館名が多くなっておりますが、これは室町時代中期に仁西の12坊にちなんで、一般の温泉宿に坊の名が採用されるようになっただけということです。寺院との直接の関係はないようです。
先日ご紹介した行基、今日ご紹介しております仁西の二人の僧のおかげで、有馬温泉は一層有名になり、白河法皇、後白河法皇、藤原道長、藤原定家、豊臣秀吉、千利休、徳川秀忠など、多くの方々が湯治に訪れるようになり、和歌や散文の舞台にも登場するようになりました。
平成19年5月15日 有馬温泉月光園 門口
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