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有馬温泉 月光園便り

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【有馬温泉月光園便り】秀吉と有馬温泉

 有馬温泉と太閤秀吉との関係はあまりにも有名ですが、豊臣秀吉の時代は有馬温泉の歴史の中では、かなり新しいものとなります。震災以前から「有馬には太閤さんの湯殿がある」と言われておりましたが、震災の復旧の際にその湯殿跡が見つかり、現在は太閤の湯殿館として営業されております。

 仁西の有馬温泉復興以後、泰安の日々が続き、室町時代から鎌倉時代の戦国時代に入っても、有馬温泉に入湯に来られる人は減らず、世の中の混乱も有馬の繁栄にはたいした影響はなかったとされています。

 仁西の有馬温泉復興から3百余年、平和だった有馬に動乱の期がやってきます。1528年に大火事があり、有馬は焦土となります。また1545年には善福寺後方の落葉山に城を構えていた三好宗三政長に、三木城主別所豊後守が攻め入りました。そのときの余波を受けて大打撃を受けてしまいます。そして1576年の大火事と復興する間もなく壊滅的なダメージを被りました。

 一方明智光秀を打ち破り、天下統一の地固めにもひと段落ついたころに、豊臣秀吉が有馬を訪れます。秀吉は長く続いた戦で疲れた心身を天下に名高い有馬の名湯で癒したとされています。これが歴史に残っている秀吉入湯の最初です。その後も秀吉は再三にわたって有馬を音連れ、復興に手を貸したとされています。1597年に大規模な改修工事が始まりましたが、惟男の直接的なきっかけは前年に近畿一円を襲った慶長伏見地震だとされています。建物の甚大な被害もそうですが、更なる問題はこの地震の影響で、有馬の湯が熱湯になってしまったということです。湯治効果を良く知っていた秀吉は英断をふるって有馬温泉の改修工事に取り組みます。

 秀吉の改修工事より350年間、有馬町は一度も泉源の改修工事を行っておらず、このときの秀吉の改修工事が後の有馬の繁栄の基礎になっていることが分かります。

 秀吉は地震の時に新しくできた温泉に湯山御殿を造り、工事が完成した1598年に入湯する予定でしたが、悪天候の為中止となります。その後間もなく病で床に伏し、この成果を見ることはなかったようです。

平成19年5月16日 有馬温泉月光園 門口